文化心理学コロキウム

京王線の仙川から徒歩10分、白百合女子大学で開催された文化心理学コロキウムに参加した。


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白百合女子大学の心理系は、「生涯教育発達センター」を組織するなど、発達心理学に非常に強いところである。キャンパスは緑が多く、エントランスからの道のりも建物も瀟酒で、無限に「行き届いた感じ」がした。歴史は古いが汚れていない、そんな大学構内だった。


発表者は『デザインド・リアリティ:半径300mの文化心理学』を著した有元典文先生で、今回は朝倉書店から出版された『文化心理学』の内容に関する講演。




講演のタイトルは、「心理学の文化心理学化に向けて」。まずは主体である人間を観察する際、個人の皮膚の内側ではなく、個人を取り巻く「文化」とセットで捉えていく視点が確認される。


その1つ目のデモンストレーションが、電球。問いは、「なぜ電球は輝くのか?」


勿論、電球が輝く物理学的な説明がありうるだろう。ただし、江戸時代では自分の家で白熱電球はつかない、なぜなら電球がつくためには、当然発電所や配電に関するインフラや公共料金徴収のシステムといったような、社会文化的なメカニズムが必要だから。電球がつくには、その物理的な理由に加えて、インフラなど「周り」もセットで考えなければならない。


そして怒濤のデモンストレーションが続く。「定規を使わず10cmの線をひいてみよう。」...6割7割くらいの参加者が±1cmの幅で描ける。でも世界基準のメートル法が構成される1791年以前は、10cmの感覚を持つ事はできなかった。


人間にはもともと統一の規格がなかったけれども、後天的に、長さに関する共通基準の感覚=能力をインストールしたことになる。そもそも持っていなかった人間というハードウエアに、共通の長さの感覚に関する能力をインストールしたのである。


秒のような時間の感覚も同じ文化に生きる人なら共有できるし、音階なんかもそうだろう。そういった私たちが普段無自覚な文化的ソフトウエアのデモンストレーションを繰り返しながら、私たちが猛烈に文化的な存在であることを説明していく。


生まれつきの人間には、長さを測る能力も、時間を計る能力も、音階を聞き分ける能力もなかった。だけれども、プロトコルがどんどん編み合わされていく、私たちはそんな文化的ロボットなのかもしれないという思いに至る。


電球が光る理由を電球の内側のことだけにみるのではなく、電球を取り巻く社会文化的な仕掛けとセットで考えてみる。私という個人を見る際に、私の皮膚の内側だけではなく、私をとりまく社会文化的な仕掛けとセットで考えてみる。



このウオーミングアップに続いて、朝倉書店の『文化心理学』の章のメインでもある「犬の本性」の話へと続く。人間にペットとして飼われる犬は、人間と暮らす限り、日々コンクリの階段の昇降をしたり、車の助手席に乗ったり、室内での躾の機会にさらされる。


こういう日常を経験する限り、犬の本性は、その犬が人間と生きる社会文化的条件と切り離して考える事ができない。どこまでが「本質」でどれが社会文化なのかは切り出して考える事はできない。



これは人間でも同じであろう。日常素朴には、男の子は「男の子のような遊び」が好きよね、という話は保育園幼稚園でよく耳にすること。このとき生まれ持った「男の子」の本性のようなものが顔を出しているわけだが、実際はトイザラスで男の子コーナーに連れて行かれたり、ちょっとやんちゃな遊びをしても注意されなかったり、ズボンを日常着用すること...を通して男の子は「男の子のような遊び」をするようになる。


ちょっとしたインテリ層なら、男の子(らしさ)や女の子(らしさ)は社会的に構築されてるんだと言うこと=性別の脱構築は容易だろう。だけれども、だからといって「安定した現実」になっている男の子(らしさ)や女の子(らしさ)を日常生活で私たちはドラスティックに(思い切って)変えようとしない。


男の子だからズボンというのはおかしい、そうすることが男女差別だと言い放ってスカートをはかせたりすることは、かなり少ない。思想としては性別の脱構築ができても、実際は「安定した現実」の許容範囲内で日常を過ごしていると思われる。


そう考えると、「安定した現実」は強い。この「安定した現実」が社会で流通していることが重要であり、そういった現実を共有できていることが、ある文化に生きることなのだろう。「本質は無い」とうらぶれた脱構築をするのではなく、安定した現実化するということが、われわれの本質なのかもしれない。



とはいえ、私たちは「安定した文化」を遵守するだけの存在ではない。私たちは、安定化した現実を生成する=本質化するために、いろんな道具やインフラを設定したり、場合によってはルールのようなものを広めたり、語りあったり、ひろめあったりする。


そのまた一方で、日常的な語りや行為を通して、安定した現実をちょっとずつ再デザインしようとする存在でもある。これは白百合女子大学の宮下孝広先生のコメントでもあり、有元先生や私も全く同じ考えだ。


例えば私の時代は男の子のランドセルは黒色以外ありえなかったが、それも今はパステル調の青でも「男の子らしさ」とみなされる。


電車の中でポータブルゲームに興じる女性は、DSのデザインや脳トレのおかげもあって、「女性らしさ」の範疇から除外されるものではなくなった。これは日々の素朴な私たちの行為とインタラクションの積み重ねで変化する「現実の安定化」だと考えられる。


そうなると、文化や文化的実践はいつも試されている。いつも誰かが修正しようとしていたり、一方でノスタルジックに変えないようにしたりというように、文化とは「運動体」として捉えられるのではないだろうか(という指摘が有元先生の主張)。



2時間の枠は、本当にあっという間だった。通底した議論:「本質」と「文化」論争はかなり考えさせられた。貪欲に刺激を生み出そうとする人々で構成された研究会は常に面白い。企画にご尽力された東洋先生、田島信元先生、小嶋さんはじめ白百合女子大学の方々に激しく多謝。