横浜国立大学の金馬先生、有元先生ほかによる『フォイエルバッハ研究会』(とりあえずの命名)に参加した。26歳のマルクスが自分用に走り書きしたメモ、通称「フォイエルバッハ・テーゼ」をいろいろと読み込む研究会となった。
金馬先生、お忙しい中ありがとうございました!
■以下、研究会のメモ書き。
なぜ今マルクスなのか? しかもなぜ「フォイエルバッハ・テーゼ」なのか? それは、びっくりするくらい活動理論や状況的学習論、もしくはヴィゴツキー派のものの見方やにマッチするから。例えば以下のフォイエルバッハの第1テーゼ。
「これまでのあらゆる唯物論の主要な欠陥は、対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえられて、人間の感性的な活動、実践としてとらえられず、主体的にとらえられていないということである。そこでこの活動的な側面は、唯物論に対立して、観念論によって展開された。」
マルクス以前の哲学では、人間の活動的側面をとらえられないでいた。社会は人間の具体性を持った活動と実践から成り立っているのに...。ヴィゴツキーの言葉ですと言われたら、ハイそうですね、と思ってしまうだろう。研究会の教材となった高田求さんの『マルクス主義哲学入門』によれば、人間の活動とは以下のように定義されている。
人間の活動は、...感性的、物質的な対象をつくりだす実践的活動(「対象的活動」)ーすなわち、労働、生産、産業ーこそが「人間の活動そのもの」の基本なのです。
実践的活動からはじめる状況的学習論もまたマルクス哲学同様に唯物論。おそらくめたくそに唯物論。実践性を超重視する唯物論。有元先生の談を借りれば、PUFFYがいいなと思ったらその源流はビートルズでした、というように、ジーン・レイブがいいなと思ったら源流はマルクスでしたという感じ。思想の樹系に関する表層的な知識をやっと少し払拭できてきた。
またマルクスは第3テーゼにおいて「環境の改変と人間の活動、または自己変革とがひとつのことだということは、ただ革命的な実践としてだけとらえられ、合理的に理解されうる。」とメモしている。ここから、人間は環境と教育によって左右されるものであり、したがって人間をかえるためには環境と教育をかえねばならないという唯物論的な系図が見えてくる。
学習環境のデザイン! と思ってしまうわけです。学習のコンテクストをどのように構築するか、ということは、人間のアイデンティティや能力の可視化と不可分なのものだ、ということをさんざん問うてきたわけです。その源流はこんなに奇麗につながっていたのかとびっくりする。ただしこれは社会主義的な社会の構築に向かう労働者への期待であり、労働者が実践的活動によって環境を変え、自分自身も変われるのだということを見通すもの。
そしてまた重要な点は第11テーゼにあるように、
「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきた。かんじんなことは、世界を変革すること。」
...古い秩序の打倒=少数の支配者層をてっぺんにした、中間層、労働者層の三角形を、労働者が支配者層の上に立つ逆三角形のような社会に変革すること、このために行動すればいいという展望である。これははじめて哲学が世界を変革することができるとなったことを示している点でも重要。それまでのものの哲学は意味が無いともみえてしまう感じ。
金馬先生のご専門の一端は戦時下・戦後の日本教育史で、その中でマルクス主義やヴィゴツキーなどがどのように「翻訳」されてきたかを問うもの。金馬先生の話をうかがうと、ヴィゴツキーはこれまで多様な読まれ方をしてきたということが分かる(佐藤学先生が日本におけるヴィゴツキーの日本的解釈について書いていて、それに詳しい)。それはマルクスの当初の読まれ方にも似ている。ヴィゴツキー理論は、主に教育学で系統学習論、科学教育論を担保するための資材として用いられていたこともあったようで、例えば今日のエンゲストロームによるヴィゴツキー解釈のみが正統派ということでもないようだ。
あのZPD(発達の最近接領域)もそうかもしれない。子供をスモールステップで育てていくアイディアは、ピアジェとタグづけて記憶していた。しかいヴィゴツキー理論もまた、形式的教育の燃料として用いられていたことになるのかもしれない。私が「ヴィゴツキー理論」と聞いてイメージすることがらは、柔軟に再解釈され続けてきたヴィゴツキー理論の1つの側面ということになる。
例えばエンゲストロームなどは、矛盾を許さない予定調和的な教育(や政治など)ではなく、異質な人を出会わせるとか、異質な学校と現場をつなぐとか、そういった実践の展開のためにヴィゴツキー理論とともにユニークな実践を展開してきている。こういった私が聞きかじったヴィゴツキーの解釈は、実は再解釈の過程のものだったとはじめて知ることになる。
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■以下は覚え書き程度。
フォイエルバッハの第6テーゼ「人間相互のこのつながり、これこそ社会とよばれるものの基礎をなすものであり、...人間の本質の現実の姿は社会的諸関係の総和(アンサンブル)である。」...アクターネットワーク理論じゃん! カロンじゃん、ラトゥールじゃん!
めためたな構造主義的解釈→ものを媒介しないと人と人はかかわれない。今の社会では、商品が独自に運動している。人と人との関係はものとものとの関係として現象している。自分が何かものを売って金儲けしたいということじたい、実は社会の構造に埋め込まれている。(物象化論、あるいは疎外論)何かものや考え方がある場合、それに対立するものをたて、それらが反駁しあうことによって、新しいものが生まれるという発想にしても、実はヘーゲル的弁証法。金馬先生によればそう定式化してしまうと単純すぎて、もう少し複雑なはずではある。矛盾が、対立が現実に含まれていて、それを歴史的にみると、いい部分をとりあって、悪い部分を捨て合って、新しいものを生み出し続けてきた。これこそがアウフヘーべン(止揚)。矛盾とか対立がないと発展はない、なので社会の矛盾が何なのかと見つけて働きかけようとする実践が重要ということになりそうだ。
ちなみにマルクスとエンゲルスは仲良しだけど若干主張と性格がちがう。マルクスの私生活はうまくなく、エンゲルスが生活の面倒をみたとのこと。当該の「フォイエルバッハ・テーゼ」も、マルクスが書いたフォイエルバッハのメモを発見して、エンゲルスがそれに手を加えて自分の『フォイエルバッハ論』という本に載せたものだという。

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